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2009年2月5日木曜日

三日月湖 お別れ

 薬師三尊像
調べてみると、秋田町が爆撃されたのは、昭和20年6月22日
日曜日の事である。
 B−29爆撃機ではなく、艦載機による局地的な爆撃だった。屋根すれすれに、飛んで来た飛行機から爆弾が放たれた一瞬を、天窓の中にみた。
 家の前の通りは学校に向かって担架で運ばれる人達で一杯になった。
 砲兵で出兵し、ビルマで負傷、傷痍軍人で帰っていた叔父が心配して駆けつけて来た。
 隣の屋敷の大屋根に穴が空き不発弾がと、大騒ぎになっていた。梯子を登る叔父を、遠避けられて,はるか彼方から見ていた様な気がする。人手では処理出来ない程の大石で、まだ熱くて、濡らした筵を被せるともうもうと湯気が出たとか。

 この空襲で、K・K子さんの一家全員、直撃弾で爆死した。長姉と同級生のお姉さんも居たそうだから、多分姉も一緒に母に連れられ、花を捧げに行った。池の様な大きな穴に、破れた管から糸のような水を吹き上げていた。他には何一つ覚えも無い。

 その後間もなく、M.Y、A.S、H.M、さんの家族は夫々にどこかへ疎開をした。それは私が疎開する日より先に。
 H子さんの引っ越しの日はお宅に私もいた。多分Mも,Aも皆んな。
  お別れ会であった様な気がするが、空っぽの部屋にピアノが放置されていたのだけを鮮明に思い出した。
 時局の所為なのか、互いに居所不明になり、音信の無いままに歳月は過ぎてしまった。

思い出したくもない事を、無理に思い出しそれだけで、涙が滲んで来た。

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