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2009年2月27日金曜日

COP10

 富士山登山ルートは、御殿場口、河口湖口、須走口、富士宮口と複数ある。COPも複数に活動している。
 先般、Y氏から電話を頂いた時には”コッポテン”と読み方を知らなかった。為に応答がチグハグになり、ご無礼をした。以下、無知を恥じ俄勉強で得た知識。
COPとは、締約国会議(Conference of the parties)の略称
 来年名古屋で開催される、COP10
「生物多様性条約第10回締約国会議」
英語の原文では命の多様性と解釈するらしい。
もう一つは京都議定書で著名な
気候変動枠組条約国会議」(京都会議はCOP3)
は今年コペンハーゲンでCOP15が開かれる。
目指す頂上は只一つ”地球環境保全”に他ならない。

2009年2月26日木曜日

五里霧中のトラブル

PC若葉マーク                     
 何が如何してどうなったのか、若葉マーク者の悩み五里霧中のPCのトラブル。
突如NET接続が出来なくなり、知る限りのことを試みるがダメ。とりあえずPCを東京の身内に送り診断を受ける。 
 全く異常なしと、そして指示を受けてようやく成すべき事、霧中に進む方向が見え始めた。結果は身内の者が月に1、2度帰省した時に必要としているRouterとかの誤動作が原因であろうとして、無事復旧なる。                 Commufaの担当者にはすっかりお世話になった。アナログ時代の私にはデジタルの世界は概念は理解出来ても、其の先は難解、数ある用語が殆ど解らない。多分普段の数倍言葉を要しただろうと、恐縮しつつも同情して。
 勉強をするしか方法は無いのは解りますが、電話帳の様なボリュームの取扱説明書はとても読み切る根気は既に喪失、昔なら貪り読んだものだが。仕方が無いのでこの不安を抱えたまま、PCとおつき合いを続けます。いつの間にか縁を切る事が出来なくなっている。

リニモ早春ウオーキング

恒例のリニモウオーキング第1回が早春の寒さの残る22日、リニモ藤が丘駅から。老若男女2,800人の参加を得て大盛況の中スタートしました。第2回は3月1日(日)芸大通駅から。 3月20日の公園西駅スタート迄全5コースで開催されます。

サタデープログラム14th

2月21日(土)
東海高校・中学サタデープログラムに参加。
大盛況の会場で、バナナペーパー紙すき体験会を催しました。



2009年2月10日火曜日

自転車旅行

 四国半周計画
高校3年生1学期終業式当日、夏休みに計画の自転車旅行。
 明朝出発にしようよと、計画繰り上げ、赤座布団の付いた通知表をちょいと隠し、徳島駅前に近い友人S宅に集合したI,K,S,Sの4名。
 目指すは、室戸岬経由、高知市、祖谷、金比羅さん、高松、鳴門と四国半周のつもり、日程は成り行き次第。
 自転車も結構年期の入った4台、パンクは勿論、修理道具一式、道中、飢えを心配なき様十分な自炊用食料も満載、準備万端。どうせ眠れないのだからと、出発は草木も眠る、丑三つの刻。


2009年2月9日月曜日

森林を守るバナナクラブ


モリゾー・キッコロ朗読劇、春日井まつりの一こま

本陣”愛・地球博ボランティアセンター”に於いて
午前・朗読の基礎訓練講座  午後・折り紙講座が開かれました。




2009年2月8日日曜日

春の気配

口移しの水は美味い。

鶴舞公園に梅の花が咲いています、紅白揃いました。

緑化センターで開催中の「私の植物画展」は7日から(後期)となり出品画も入れ替わりました。2月22日迄です。

2009年2月7日土曜日

世話人会

森林を守るバナナくらぶ 世話人会を開く。
栄町の会議場にて18名出席


植樹祭

なごや西の森づくり
3月22日(日)
戸田川緑地中央地区(国道1号線南側)に於いて
第8回植樹祭が開催されます。
 平成12年度から延べ16,000人が参加約36,000本が植えられております。あなたも参加しませんか。
詳しくは出来たばかりの左記のチラシでどうぞ。
 バナナペーパー紙すき体験も、その他盛り沢山のお楽しみあり。
モリゾー・キッコロと一緒にお待ちしております。

2009年2月6日金曜日

国府宮の「はだか祭り」

尾張大国霊神社「はだか祭り」に向けて奉納される大鏡餅。
明日の国府宮「はだか祭」に向けて大鏡餅奉納が行われた。
裸でない裸男「神男」に難を託する奉納会員

 














2009年2月5日木曜日

三日月湖 お別れ

 薬師三尊像
調べてみると、秋田町が爆撃されたのは、昭和20年6月22日
日曜日の事である。
 B−29爆撃機ではなく、艦載機による局地的な爆撃だった。屋根すれすれに、飛んで来た飛行機から爆弾が放たれた一瞬を、天窓の中にみた。
 家の前の通りは学校に向かって担架で運ばれる人達で一杯になった。
 砲兵で出兵し、ビルマで負傷、傷痍軍人で帰っていた叔父が心配して駆けつけて来た。
 隣の屋敷の大屋根に穴が空き不発弾がと、大騒ぎになっていた。梯子を登る叔父を、遠避けられて,はるか彼方から見ていた様な気がする。人手では処理出来ない程の大石で、まだ熱くて、濡らした筵を被せるともうもうと湯気が出たとか。

 この空襲で、K・K子さんの一家全員、直撃弾で爆死した。長姉と同級生のお姉さんも居たそうだから、多分姉も一緒に母に連れられ、花を捧げに行った。池の様な大きな穴に、破れた管から糸のような水を吹き上げていた。他には何一つ覚えも無い。

 その後間もなく、M.Y、A.S、H.M、さんの家族は夫々にどこかへ疎開をした。それは私が疎開する日より先に。
 H子さんの引っ越しの日はお宅に私もいた。多分Mも,Aも皆んな。
  お別れ会であった様な気がするが、空っぽの部屋にピアノが放置されていたのだけを鮮明に思い出した。
 時局の所為なのか、互いに居所不明になり、音信の無いままに歳月は過ぎてしまった。

思い出したくもない事を、無理に思い出しそれだけで、涙が滲んで来た。

2009年2月4日水曜日

三日月湖 幼友達

 疎開前のT小学校は現在も多分県下最大規模だと思う。その学区では生まれてから、幼稚園、小学1年、2年の1学期迄お世話になった。

 その頃の記憶は、自身の体験と、両親、姉等から聞いた話が多分に混在している様で、区別は難しい。しかし。いずれもノンフィクション。

 住まいは勿論、付近一帯戦災で跡形も無く、面影も無くなっていたが、コの字2階建ての校舎は奇跡的に残っていた。その後の火災で焼失する迄。
 
 お向かいには我が子の様に可愛がってくれた、Nさんの工場があった。板張りの床にNさんを正面に、左右に夫々2・3人の職人さんが向かい合って座布団に座り、剣道の竹刀を専門に作っていた。その道場の様な作業場は自由に出入りをしていた。
大きな猟犬は仲良しだった。その猟犬と一緒に、疎開先にも度々立ち寄って呉れていたのを覚えている。

 その2軒先が、同級生のY君の家。提灯を作っていた、親父さんは丸顔の大きな身体で、筆をもって文字とか日の丸を書いていた。2階の畳敷きの部屋では姉御がお二人、職人さん達と一緒に提灯張りをしていた。ここも出入り自由。

 左隣は倉のある塀に囲まれたお屋敷。3年生と児童長の6年生の二人兄弟。2階の部屋に戦死した父親の、軍刀を杖にした大きな写真が額に入っていた。確か大将であったと記憶する。でも2階は何時も雨戸が締めてあって暗く,薄気味悪く嫌いだった。だが倉の中は、刀、槍、鎧等色んな物があり面白かった。時々風呂にも一緒に入っていた。

 その数軒先が空き地で小さな原っぱになっており、子供の遊び場になっていた。その脇に畑があり、お袋や、姉達と、茄子、キュウリの取入れをした。瓜もスイカもあった様に思う。

 さらにその先百米程先が秋田町。3丁目迄あった。そこから学校迄の途中に私の家が。その町のK子さんが先ずさそいにくる、そして二人でM君を、更に学校近くの、A子さんと、H子さんと5人で学校へ、多分幼稚園のころから。
 これが私の記憶にある幼友達の全てになる。

 

2009年2月3日火曜日

そごう百貨店


 心斎橋のそごうデパートが売却されるとかのニュース。
ここにも思い出がある。小学6年の修学旅行、大阪、奈良、京都を
2泊3日、に往復船中泊だったと思う。
 その時代は未だ経済も、物資も豊かとは言えず、(ララ)か、(ユニセフ)かの援助物資を抽選で当てたゴム靴を履いて行った。
大阪では、四ツ橋の電気科学館と心斎橋のそごう百貨店へいった。
 デパートを出る時、靴が無いと騒いだのが二人居た。ピカピカの店内に入る時、下足は脱がなければと思ったらしい。半世紀一寸前の話。 

あなたに伝えたい愛・地球博
思い出いちばんがモリコロパークで開催されます。愛・地球博記念館で2月14日から3月15日迄 。
 愛・地球博には思い出は溢れる程あるが、その内応募の写真2枚が、予備審査に合格、A−95、A−96に展示の旨通知がありました。どうぞご観覧を。

2009年2月2日月曜日

森林を守るバナナクラブ

森林を守るバナナくらぶ
    折り紙講習会 
栄町アパHの一角を拝借、H女史を講師に7名参加、立体折り紙のハイレベルの講習会。私も挑戦しましたが落第。
9日に追試験を受ける事になりました。
その模様と作品例。

三日月湖 講和成立

 それからどれくらい経過したのか、学期終業の大掃除の最中。O村の子分、虎の威を借りる狐がドサクサに紛れて、直接行動でチョッカイを懸けて来た。その狐思いっきり投げ飛ばされ、壁の腰板が割れ、たん瘤を作り、大泣きした。
 先生も飛んで来たが、その始末はどうであったか、全く記憶にない。特に叱られた覚えも無いし。
 只後日、そのボスに誘われ、彼の自宅で欲しかった数匹の蚕をプレゼントされ、戦後の補償迄付く講和が成立したようです。以後も行き来し随分と仲良くしていた。
 この学校、不思議と当時の規模のまま健在でした。先般、祖父母と叔父の墓参りに行った折。後輩に当たる、姪っ子の娘と、又その娘に一入の感慨をもってその話を聴きました。

三日月湖 いじめ

 酔芙蓉の午後
 学区には3村あり、2村がライバル関係。私の居た北山村は少人数で中立の穏健派。何か(主に喧嘩)を始める時は村単位の悪共が徒党を組むことが多い。その一方の雄O村が相手。こんな時、暗黙の掟か。他の村は傍観者になる、敵にも味方にもならない。(この姿勢は現在の国際紛争にも有効らしい)
 親にも先生にも言わない、子供のプライドがそうさせていたのか。主に女性軍、そして良識派の無言のエールに励まされて、頑張っていたのであろう。
 何時か上級生の知る処となり、6年生の番長が2・3人の子分を連れて、助っ人に乗り込んでくれた。この番長は同じ村、そして姉のクラスメイト。
 衆目の中、相手を問われても、何故か答えなかった。その日はそれで終わった。が、状況は大きく変化した。

2009年2月1日日曜日

三日月湖 男女7才にして

 とっくの昔に市に編入されているが、当時はバスの終点から小1時間も歩く、山の麓の純農村地帯。子供の世界も保守的なのか、ませているのか、”男女7才にして席を同じくせず”が徹底していた。その上「男と女は遊ばぬの・・・・なんとか・・」等と戯れ歌迄あった。
 それ迄いた市内では考えられないことだった。
だからそんな環境も意に介さず、振る舞っていたので、小憎らしくて、その上羨ましくって堪らなかったに違い無い。
 どの位の期間であったか、暫く苦しめられた。