その頃の記憶は、自身の体験と、両親、姉等から聞いた話が多分に混在している様で、区別は難しい。しかし。いずれもノンフィクション。
住まいは勿論、付近一帯戦災で跡形も無く、面影も無くなっていたが、コの字2階建ての校舎は奇跡的に残っていた。その後の火災で焼失する迄。
お向かいには我が子の様に可愛がってくれた、Nさんの工場があった。板張りの床にNさんを正面に、左右に夫々2・3人の職人さんが向かい合って座布団に座り、剣道の竹刀を専門に作っていた。その道場の様な作業場は自由に出入りをしていた。
大きな猟犬は仲良しだった。その猟犬と一緒に、疎開先にも度々立ち寄って呉れていたのを覚えている。
その2軒先が、同級生のY君の家。提灯を作っていた、親父さんは丸顔の大きな身体で、筆をもって文字とか日の丸を書いていた。2階の畳敷きの部屋では姉御がお二人、職人さん達と一緒に提灯張りをしていた。ここも出入り自由。
左隣は倉のある塀に囲まれたお屋敷。3年生と児童長の6年生の二人兄弟。2階の部屋に戦死した父親の、軍刀を杖にした大きな写真が額に入っていた。確か大将であったと記憶する。でも2階は何時も雨戸が締めてあって暗く,薄気味悪く嫌いだった。だが倉の中は、刀、槍、鎧等色んな物があり面白かった。時々風呂にも一緒に入っていた。
その数軒先が空き地で小さな原っぱになっており、子供の遊び場になっていた。その脇に畑があり、お袋や、姉達と、茄子、キュウリの取入れをした。瓜もスイカもあった様に思う。
さらにその先百米程先が秋田町。3丁目迄あった。そこから学校迄の途中に私の家が。その町のK子さんが先ずさそいにくる、そして二人でM君を、更に学校近くの、A子さんと、H子さんと5人で学校へ、多分幼稚園のころから。
これが私の記憶にある幼友達の全てになる。
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